パスモ

私はパスモをチャージする。都会に住んでいたらすぐ交通費なんて飛んでしまう。でもチャージするたび、なんの感情もない機械に紙が吸い取られて行く度にその無情さを痛感するのだ。

無情というと変かもしれない。そのお金で電車に乗らせてもらってるわけだから。でもお金のその重みを感じられないものにお金を払う行為が私には無情に感じられるのだ。

例えば5000円チャージする。それは私が5時間バイトして貯めたものだとする。

元気が有り余ってる時の5時間だったかもしれないし、試験前で余裕がない時の5時間、熱を出しながら働いた5時間かもしれないし、その背景の想像にはきりがない。

例えばそんな5000円で良質な定期入れを職人さんから買ったとする。お互いに物の対価をきちんと理解して、そのお金の背景に感謝しあって、また作られた物の素晴らしさをいちいち実感して買うという行為が成立する。

しかしチャージにはそのありがたみを感じることはない。そんな時、機械化に寂しい想いを感じざるを得ないのだ。

合理化と感情化は気をつけて図らなければならないと思う。それがその人の味になり、その人の人生をかけがえのないものにするきっかけになりうるのだから。